あの笑顔の奥の涙へ(2):心の荒波を進むコツ

これは二部シリーズの第二部です。第一部はこちらからご覧になれます。

私は街中でセクハラの現場に止めに入る人が少ないのは、人々が被害者のことを助けたくないと思っているからではない、と感じている。そうではなく、実際に助けたいと思っていても、それに伴う強い恐怖心や不安感に打ち負かされて、実際の行動を取れなくなってしまうからではないか、と思っている。もしそうであれば、自分を動かすための知識をあらかじめ持っておけば、実際に行動を起こせる人が増え、より多くの被害者が救われるのではないか。そんな希望を抱いている。この記事では、私個人の経験と反省に基づいて、自分の感情の波に流されないようにしながら、いかに被害者のために行動を起こすかに関する考え方やコツを紹介したい。

まず、第三者としてセクハラ現場を目撃するときに想定される4つの課題を見ていこう。

  1. 驚き。セクハラの現場には、思いもしないときに遭遇する。それは仕事で外を移動中の時かもしれないし、買い物の途中かもしれないし、友達と遊んだり、同僚と飲みに行っている最中かもしれない。突発的に向こうから目に飛び込んで来るものなので、ビックリさせられてしまい、冷静さを奪われてしまうのだ。
  2. 混乱。合意がある行為のか、セクハラなのかが分かりにくく写ることが想定される。被害者のしぐさがはっきりしない。表情と身振りとか矛盾している、そうしたことは現実的に起こりうる。むしろ、被害者がはっきりとしたジェスチャーで助けを求めることの方が稀だと思った方が良い。その中で、自分の心の中で巻き起こる混乱に対処すなければならないのだ。
  3. 自己批判。セクハラの現場に、部外者として止めに入るとき、その前の自分の心の準備することにモタモタしてしまうと、どんどん被害者の心の傷が大きくなる。被害者を考えれば考えるほど、自分が行動できていないことへの自己批判の気持ちが強くなっていく。
  4. 自己防衛本能。実際に助けに入るかどうかは、部外者である自分自身にもリスクを伴うことなので、自分の中で損得勘定をして「何もしない方が合理的」と結論づけたくなることだってある。このとき、心の中で「自分には関係ない」や「被害者の自己責任だ」といった考えが浮かぶことさえ当たり前に起こる。しかし、そうした考えは、現場に介入することへの恐怖心が引き起こしていることがほとんどであり、その感情の下に埋れている、純粋な正義感や被害者への思いやりの心を見失わないことが課題となる。

これらを乗り越えるためには、自分の中で「なぜ (Why)」を見つけておくことと、「どうやって (How)」その「なぜ」を行動に移していくかが鍵となる。

Why

「なぜ」とは、自分が被害者を助ける理由である。この「なぜ」は、人から言われたことではなく、自分が本当に信じている倫理観・価値観に基づいている必要がある。学校や親、社会から言われたことだから、というように、助けに入る理由が自分の外側にある人は、おそらく自分の身を危険に晒す覚悟を持てない。仮に自分が怪我を負ったり、精神的に擦り減る思いをしたりしても、それでも助けることに意味がある、と思える理由が必要になるのだ。そのため、この「なぜ」は自分の中の恐怖心を消すものではない。むしろ、恐いと感じたままでも行動するための原動力となるものなのだ。

私の場合、自分の「なぜ」は「被害者のため」という以上に「自分のため」という要素が強かったかもしれない。自己中心的に聞こえるかもしれないが、助けに入らないことによる後悔をしたくないと強く思っていた。自分の身を以って外部から止めに入ることへの恐怖心が強かったため、被害者への共感まで頭が回らなかったのだ。そんな中でも実際の行動をとるために、私は自分自身の「生き方」に目を向けた。自分はどんな人間になりたいのか。その人物は、目の前に被害者がいるときに、どんな行動をとるのか。これまで中学バスケ部のコーチをやってきて、教えてきた生徒たちのお手本になれるような人間になろうと、真剣に心がけて努力してきた。そんな自分が、自分の恐怖心に負けて何もできない人間ではいけない。そう思った。

セクハラの現場に止めに入ることが、自分にとって成長するためのチャンスだと思うことにした。喧嘩になったり、精神がすり減る思いをしたとしても、それによって長期的に人間として成長できるならば、これほどのチャンスはないと思った。例え止めに入った男がナイフを持っていて、刺してきたとしても、実際に人を刺す勇気のある奴はそうはいないだろうし、刺されても場所さえ悪くなければ死ぬことはない。そう思っていた。国民健康保険にも入っているし、治療費で自己破産することもないだろう。どういうわけか、とりあえずなんとかなると思っていた。

この「なぜ」は、自分が納得して行動できるものであれば、なんだって良い。被害者のために何らかの行動をとることが一番大切である。でも、この「なぜ」は事前に自分の中で深く考えて、納得しておく必要がある。セクハラには予期せぬときに遭遇するので、現場を目撃してからそれを考え始めるのでは、心の準備に時間が取られすぎるだけでなく、プレッシャーもかかるので、助けに入る前の段階で、より精神的にエネルギーを使ってしまう。

How

自分の中で「なぜ」が掴めたら、次は、実際に介入するため手順を見ていく。この「どうやって」のプロセスには、大きく二つのステップがある。

  • Step 1

一つ目は、現場で起きていることがセクハラかどうかを見極めること。これには、自分の人間としての「直感」を使うことが一番良いと思う。直感はどんな論理的思考よりも素早く、本質的に物事の実態をつかめるからだ (1)。そもそも、セクハラという行為自体も、論理的なものではなくて、もっと感覚的なものである。

セクハラの加害者と被害者に、全身の感覚と心の目を向けて、一般常識に基づいて二人のやりとりをよく観察すれば、それがセクハラかどうかは自然と見えてくる。どちらかが嫌がっているにも関わらず、無理やり如何わしい言動がなされていれば、それにはセクハラの疑いがある。

被害者は自己防衛のために、あからさまな抵抗をしないことが多いので、顔の表情と身振り手振りが一致しないことが十分ありえる。私の経験からは、顔の表情よりも、身体のジェスチャーの方が真実を語っていることが多いのではないかとさえ思う。表情が普通に見えたり、身体的な抵抗もそこまでハッキリとしなかったとしても、それは加害者の神経を逆なでしないための自己防御策であると認識しよう。

  • Step 2

次のステップは、目撃している行為が、本当のセクハラであることを「確信する」ことである。目前で起きていることがセクハラだと結論づけるためには、「そうであれば自分は行動をするのだ」ということに納得する必要がなる。つまり「確信する」ことは、実際の行動を起こすために自分を説得することを意味する。心の中で沸き起こる恐怖や不安感、その他の様々な感情や考えの波と向き合うことが、「確信する」プロセスなのだ。

個人的には、このステップが一番精神的にキツいと思っている。ここで必要になるのが、実際に行動をとるための覚悟、つまり、先ほどの「なぜ」になる。というのも、私たちの自己防衛本能は、自分の恐怖心を正当化しつつも、自分の「良心」を守ろうとする働きもあるからだ。恐怖心によって、自分が行動を起こさないのは現場が「セクハラではない」から、と思いたくなってしまうのだ。「どうやらセクハラに間違いない」と分かっても、その次はいかに介入するデメリットが大きいか、という考えがたくさん出てくる。「自分にはどうすることもできないから、助けに行く意味がない」といった考えも当然浮かんでくる。恐怖心というのは、私たちを自己防衛行為へと導いてくれる一方で、その過程で自分の内面も傷つけないように配慮してくれる、ある意味で「イイやつ」なのだ。

でも、これは本質的に「何もしない」ための理由探しでしかない。自分の中の「良心」を守り、罪悪感を減らすために、何もしないことを正当化するための論理武装をしているに過ぎない。論理というのは、本質的に「道具」でしかないので、その根底にある欲望や感情、目的次第で、使い道はどうにでもなってしまう。多くの人は、ここで論理が何に使われているのかに気づかないまま、恐怖心や不安感が作り出した説得力のある言葉を信じて「何もしない」という選択をしてしまうのだ。

自分の心に浮かぶ考えは、全てが等しく作られているわけではない。日常的に自分の心がおバカで、非現実的な発想や妄想をすることは、誰にでもある。それでも、トム・クルーズやジャッキー・チェンのように高層ビルとビルの間を飛び渡ろうとする人がいないのは、それがいかにカッコよく見えたとしても、実際にやるべきことではないと、皆が判断しているからだ。つまり、心に浮かぶ考えの中から、どれを選び、どれを信じて行動を起こすかは、常に我々自身が判断して決定しているのだ。たとえ、それが無意識のプロセスであっても、決定権はいつも「自分」にある。これは、セクハラを止めに入る時も、同じことが言える。恐怖心や自己防衛本能が繰り出す様々な考えを信じて行動を起こさないか、それとも自分の中の「なぜ」に立ち返って行動をとるのかは、自分で決めることができるのだ。

  • 恐怖を乗り越えるコツ

それでも、恐怖を乗り越えるのは簡単なことではない。でも、「恐怖を感じることが当たり前のことだ」と認識できれば、恐怖が自分の心を支配する力を弱めることができる (2)。恐怖心やストレスというものは、自分がそれらを感じている事実を受け入れられないことで、さらに増大してしまう。そうしないためにも、自分の恐怖や、それに伴う不誠実な考えが出てくるのを「当たり前のこと」として受け入れるようにする。それだけで、恐怖や不安感を和らげることができるのだ。

その次に、介入するにあたって一番最初にやらなくてはいけないことに注力しよう。それは、加害者に対して何を怒鳴ることでも、加害者と被害者の間に身体を割って入ることでもない。被害者を助けるためにまず取らなければいけない行動は、セクハラ現場へと足を運ぶことである。先のことを考えて、加害者と喧嘩になるんではないか、そいつから罵倒されるのではないか、といったことを考えてしまう前に、まずは一歩一歩、しっかりと前進して現場に到達することに集中しよう。結局、部外者としてセクハラを止めに入るときは、そこで何が起こるかを前もって知ることはできない。不確定要素が多すぎるからだ。分かり得ないことを心配して心をすり減らすよりも、自分の目の前にあること、つまり、とりあえず歩いて現場に向かうことに集中しよう。この際、大きく深呼吸して心を落ち着かせることも大変有効である。

現場にたどり着いたら、そこで言葉を発する必要はない。ただ加害者の目を黙視するだけで、十分効果がある。自分がじっくりと見られているという感覚を加害者に与えるだけで、加害者のほとんとは嫌がるはずだ。仮に何か言いたいことが出てきたとしても、それが正しい言葉なのか、良い言葉でなのかを気にする必要はない。職場のみんなの前で演説しているわけではないのである。

セクハラ現場に向かった後に具体的に何をするかは、前もって決めておく必要はない。そうしたプランがないことで、逆に柔軟な対応ができるようになる。その柔軟性というのが、不確定要素に溢れる状況においては一番の強みとなる。もちろん、本当に怖くなったら、そこから逃げ出しても構わない。

セクハラを止めに入る最大の意義は、被害者に、彼女たちを助けようとする人が世の中に存在するという事実を、被害者に知らせることにある。セクハラをされている時、被害者が感じる孤独感というものが、一番心に深い傷を残すからだ。助けに入って、実際にそれが上手く行くかどうかは、その次の段階の話しとなる。

完璧な結果を求めることは、そもそも部外者として不可能だ。それに囚われて行動を起こさないのであれば、そっちの方がマイナスが大きい。ただ単に現場に歩いていって、加害者を黙視しつづけるだけでもある程度の抑止効果が期待できる。ほかにも、周りの人に止めに入るように頼んでもいいし、単純に加害者の気を散らすために道を尋ねるふりをするだけでもいい。小さなことで構わない。自分にできることを、できる分だけ行うことに、大きな意味があるのだ。

最後に

セクハラに止めに入るということは、究極的には「三人」の人にメリットをもたらす。被害者、自分、加害者、の三人である。被害者はもちろんだが、介入する本人も、助けに入ることで自分の感情と向き合い、成長する機会をもらえる。加害者にも、周りから阻止の手が入ることで、自分が間違ったことをしていることを認識させる手がかりを与えられる (もちろん、その教訓を本当に自分の中で受け入れるかどうかは、加害者次第だが)。でも、自分が行動を起こさなければ、この三人全員にデメリットがある。

この記事を読んで、次にセクハラの現場に出くわしたときには、止めに入ろうと思える人が出てきてくれれば幸いである。

P.S. 英語のCMになるが、この動画の中ではセクハラの場面や、それにどのように介入できるかといったことが映像として見れるものとなっているので、参考までに付け足しておく。

(1) 詳しくは、ダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー: あなたの意思はどう決まるか』などを参照下さい。

(2) 脳科学的に言えば、強い恐怖を感じたり、大きなストレスがかかるとき、我々の脳の中で「痛み」を感じる部分が活性化して「自己防衛」に特化した脳の回路にスイッチが入る。これは、進化論的には、我々の先祖が進化の過程で、生きながらえるために獲得した防衛機能だとされている。しかし、この「サバイバルモード」は、理性的に考えたり、長期的な視野で物事を捉えたり、他者と共感するための機能を持っている「前頭前野」の働きを阻害するので、考え方が短期的、自己中心的になってしまう。その結果「逃げる」を選択してしまう人が増えてしまうのだ。

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